枚方市と八幡市の境にある洞ヶ峠は、自宅から最も近い地元の峠。「洞ヶ峠を決め込む」という言葉で有名な峠も、単なる国道1号のゆるやかな坂道のありさまに興味も持てずにいた。
ところが正月休みを利用して図書館に行き、郷土関係の書籍を数冊借りて読んでいくうちに、のめり込んでいった。あのラーメン屋の前の道が京街道なんだ。あの坂が東高野街道だったのかと。地元だけに、文字から風景が鮮明に浮かび上がる。知っていることと、知らないことが、頭の中で交差する。
そのうちに、旧街道を歩いてみたい。歩いて昔の人々のように、洞ヶ峠を越えて我が家まで帰ってみたいと思い始めた。今回は、徒歩で京街道から東高野街道を経て洞ヶ峠を越えることにした。
【目次】
- 洞ヶ峠・調査NO.89
- 京街道 Pickup Photo
- 京街道と戦国時代の栄枯盛衰
- 東高野街道 Pickup Photo
- 東高野道から京街道へ移った主要街道の地位
- 巡検道(巡見道)とは
- 京都三宅安兵衛依遺志建之とは
- 東高野街道の昔の姿を追う
- 東高野街道の洞ヶ峠
- 再び京街道から東高野街道へ(国道1号の遍歴)
- 筒井順慶と洞ヶ峠
洞ヶ峠・調査NO.89
- 調査:
- 峠名:洞ヶ峠(ほらがとうげ)
- 路線:国道1号(枚方バイパス)
- 所在:京都府八幡市八幡南山∧大阪府枚方市高野道・長尾峠町
- 地図:電子地形図 / Google Map /位置図
- 座標:34.851583,135.703812
- 標高:59m、路面:オンロード
- レビュアー:峠ノ太郎(徒歩)
- おすすめ度: 3
京の都から商都大阪への玄関口の洞ヶ峠へ至る街道には、歴史を語る道標が多くある。
京街道 Pickup Photo
[12:48]まずは、樟葉駅を起点にして京街道を、橋本駅から八幡市駅へと京阪本線に沿った京街道を歩く。参考にした地図は、「大阪府/歴史街道ウォーキングマップ」からダウンロードしたもの。
樟葉駅前には、「樟葉牧」の碑が建っている。この「牧」は、牧場を指しています。小学生の頃には、牧場ではないが牛舎が淀川沿いに点々とあったことを覚えています。
[12:56]京街道は、樟葉駅の京都側、くずはゴルフ場への高架の手前にある交差点、ジャンカラと天下一品の間になる。天一の並びには、寛永年間の創業の鰻屋「阿み彦・くずは店」があり、この北浜店も京街道の延長線上の土佐堀川沿いのビルの地下にある。、街道を意識した、出店なのかもしれない。
[13:05]樟葉駅始発の時間待ち車両が止まっていた。ここから道が右に折れている。路面が着色されていて迷うことはない。
[13:09]次の曲り角の住宅の隅には、真新しい「旧京街道」の石碑が建っていた。この辺りの街道筋は、L字側溝になっていて、脇道のU字側溝と違いが見られる。
[13:26]再び京阪本線が左手に現われる。右手の白い柵は、樟葉取水場のもの。
京街道と戦国時代の栄枯盛衰
天下を統一した豊臣秀吉は、文禄五年(1,596年)毛利照元をはじめ諸国の大名に命じ淀川沿いに、「文禄堤」と呼ばれる全長37kmの堤防を造る。湿地の続いていた淀川の沿岸を大きく変えたこの堤防の上を、京都と大阪を最短距離で結ぶ「京街道」とした。
後に、この京街道を徳川家康十五万の大軍が大坂城を攻略のために進軍する。さらに後に、この京街道を徳川家最後の将軍慶喜が大政奉還し、わずか30名の家臣と共に大坂に逃れることとなった。
[13:31]細道には、「マムシ注意入るな!」と注意書きがあり、ここは右折する。
[13:33]久親恩寺を左手に、突き当たりを左折する。
[13:36]すぐに道が消えるが、踏み跡がクッキリとあるので登ってみる。桜並木とバリケードの間を右手に進む。
[13:40]樟葉台場(樟葉砲台)跡に着く。
『楠葉台場(砲台)跡案内板』より
元治元年(1864)、徳川幕府は大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸のここ楠葉と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には楠葉関門を設けました。高浜砲台にはカノン砲4門が設置されていたので、楠葉砲台にも同様に設置されていたと考えられています。
慶応四年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利を見て官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る楠葉砲台に砲撃を加えたので、淀川を挟んで両台場は交戦状態になりました。楠葉砲台は、伏見、淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、砲弾が尽きたので砲を破壊して退去しました。久修園院の南西方に砲台跡の土塁が残っていましたが、明治末期の京阪電車の敷設に伴い土塁の土砂は運び去れてました。
橋本砲台址の碑
所在地は大阪府枚方市だが碑には、なぜか橋本と京都府の地名が入っている。
- 碑陽:戊辰役橋本砲臺場跡
- 碑陰:昭和三年十一月稟 京都三宅安兵衛遺志建之
[13:44]現在の京街道は、このバリケードに囲まれた、大規模な造成工事の中にある。造成前は、一面に広がる田んぼの中の畦道のような状態で様変わりした。橋本駅方向の矢印に沿って歩く。自治会の掲示板を見ると、ロータリーを造っているようだ。
[13:51]造成中の道を歩いていると、右手に立派なお寺があり立ち寄ってみた。この久修園院は、行基菩薩の起工された寺で、行基四十九院のひとつ、通称「釈迦堂」、または「木津寺」と言われている。
[13:56]小金川踏切を渡り、すぐに右折する。この踏切の周辺は、撮り鉄の定番スポットのようで、カメラを向けている人をよく見る。線路がカーブしているので、良い構図で撮れるのでしょう。
[14:00]橋本遊郭跡に入りました。「橋本湯」の立派な鬼瓦が出迎えてくれた。お湯のマークにまん丸な電燈が素敵です。
[14:07]半世紀以上は経っていると思うが、不思議なぐらいどの建物の状態が良い。最盛期には80軒の妓楼(ぎろう)に700人の娼妓がいた。また、井原西鶴が「好色一代男」にも描かれている。
[14:09]趣のある沿道の建物を楽しんでいると、大きな歯科の看板に突き当たる。京街道は右折だが、左側を覗いてみると橋の手前に道標があった。ここには、渡し場があったようだ。
[14:13]ここで時代劇の一場面のように、船で渡るような風景が見られたのかと、頑張って想像してみるがコンクリートだらけで阻まれる。
橋本の渡し碑
- 碑陽:柳谷わたし場
- 左面:山ざき /あたご わたし場
- 右面:大坂下り舟の里場 /津の国そうじ寺 わたし場
- 碑陰:明治二己己年六月 世話人
角屋三良兵衛 北之町吉之助 渡し中間
[14:15]橋本の渡し碑から京都方向の画像。左手は、旧京阪国道(京都府道・大阪府道13号京都守口線)。この窓からは、今とは違う風景が見られたのでしょうか。
[14:16]道を戻り歯科を左手に直進すると、右手に魅力的な酒屋さんの看板があった。
[14:19]ここは、左折します。角に道標(左り 八まん宮・いせ京伏見)があり、直進すると下の画像の京阪本線を潜る通路になっています。
[14:21]京阪本線を潜る通路。
[14:28]しばらく歩くと、Y字路になります。ここは、左手に進み、すぐに右折する。
[14:30]ホテルリベロ(廃墟になっていた。)の前をとおり、少し長い距離を直進する。途中には、文化住宅が多く見られた。この文化住宅というのは、関西人以外にはピンとこないようです。発祥は、門真市からだと聞いたことがある。
[14:49]八幡市駅自転車駐車場を右折する。
[14:52]橋を渡り。
[14:52]放生川踏切を渡る。
[14:53]橋本市駅に到着する。中央には竹のモニュメント。
[14:54]八幡市の自慢は、トーマス・アルバ・エジソンが炭素白熱電球の発明後、同市の竹がフィラメントに使用されたこと。ここから、京街道から東高野街道へ入る。
東高野街道 Pickup Photo
[15:06]安居橋(あんごばし)通称、たいこ橋。
東高野道から京街道へ移った主要街道の地位
東海道五十三次の一部となる京街道は、伏見・淀・枚方・守口の四か所に宿が設けられ発展する。これによって京都と大阪間の主要道の地位は、東高野街道から京街道へ移る。
宿とは、街道筋に設けられた公用人馬の提供を義務付けられた駅のこと。東海道の宿の提供は1日当たり、人足(人夫)100人・馬100頭と決められていた。
[15:11]二股に分かれた道を右手に進む。南西角の位置に、八幡橋の碑があり、今も馴染みのある地名が刻まれていた。
八幡橋の碑
- 碑陽:八幡橋 右 志水町十二丁 左 橋本町十一丁
- 碑陰:昭和三年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
- 右面:右 奈良街道 川口五丁 下奈良二十丁 上奈良二十五丁 内里三十丁 上津屋一里 岩田一里六丁 大住二里 田辺二里半 木津五里 奈良六里半
- 左面:左 宇治街道 奈良濱廿丁 下津屋廿五丁 佐山三十丁 宇治新田二里 宇治町二里半
[15:19]井戸の横に碑が建っている。
山ノ井戸の碑
- 碑陽:山ノ井戸 八幡泉坊跡二丁 右 松花堂墓所十間
- 碑陰:昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
[15:21]道なりに左に曲がると右手には、平谷町泰勝寺内にある松花堂旧跡の碑がある。
松花堂舊蹟の碑
- 碑陽:松花堂舊跡
- 碑陰:昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
- 右面:向て右 神應寺二丁
- 左面:向て左 頼風塚
[15:22]T字路を右折する。
[15:25]古い町並みが続く。
本妙寺の碑
- 碑陽:日門上人墓所 本妙寺 右 念佛寺二丁 左 園口 半丁
- 碑陰:昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之
[15:27]この三叉路を直進する。
[15:30]ここは、左折。(電柱に矢印あり)
[15:31]八幡市内のこの周辺は、東高野街道の案内が親切に表示されていた。
[15:33]ここで写真を撮っていると、自転車に乗ったおじさんが「休みなのか~」とガッカリした様子でつぶやいたので、「何のお店ですか?」と尋ねると、志゛ばん宗という「ういろう」で有名な店だと教えてもらいました。この店の横手には、碑が建っている。
小野頼風塚の碑
- 碑陽:小野頼風塚
- 碑陰:昭和二年建之 三宅安兵衛
- 右面:向右 松花堂墓所
- 左面:向左 善法寺
[15:35]小野頼風塚の碑の裏手の細い通路の奥には、頼風塚がある。
頼風塚
平安時代の初期、平城天皇(在位806~8)の時代に、小野頼風という人が男山に住み、京に妻を置いていたが、いつしか二人の間は冷え、彼女は八幡に尋ねて来たが、頼風には他に女があると聞いて涙川に身を投げて死んだ。
頼風は死んだ女を川辺に葬り、死ぬ時岸に脱いだ衣が朽ちて土に落ち、そこから女郎花が咲いたという。この花は恨みを含んだ風情があり、近よればなびしりぞき、たちのくともとの様になるので、頼風は自責の念に耐えかねて、ついに同じ涙川に身を投じて死んだ。
時の人はこれをふびんに思い、頼風のために塚を築いたのが今の頼風塚であり、小さな五輪塔が一基悲恋の伝説を物語っている。女の塚は女郎花塚といわれ、これより南1.5キロメートルのところにある。
[15:44]また碑が出てきた。この聞きなれない巡検道とは、どんな道なのか調べてみると。
巡検道(巡見道)とは
巡見道は、江戸時代に幕府の巡見使(江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。)の通った道。
奈良街道巡検道の碑
- 碑陽:巡検道 洞ヶ峠圓福寺廿丁 岡の稲荷社十丁 京阪電車停車場十丁 八幡宮志水坂登六丁
- 碑陰:昭和二年春 京都三宅安兵衛依遺志建之
- 右面:右 宇治近道 奈良濱十五丁 佐山廿五丁 宇治町二里
これまでに、何度も登場する碑に刻まれた「三宅安兵衛」とは、一体どのような人物なのでしょうか。そして、なぜこんなに多くの碑が八幡市には建っているのでしょうか。
京都三宅安兵衛依遺志建之とは
「京都三宅安兵衛依遺志建之」と碑文にある三宅安兵衛氏は、1842年(天保13年)、若狭小浜で生れ、幕末の京都へ奉公の後、京都で帯織物業を営み、一代で財をなした。
1920年(大正9年)、享年79で死亡したが、その前年、家業を継いでいた長男清治郎氏を呼び、金1万円を渡して「公利公益に使え。用途は一任する」と遺言したと伝えられる。
遺 言によって、清治郎氏は旧蹟案内と道標の建碑を決め、1913年(大正12年)から1930年(昭和5年)の8年間にわたって、南山城一帯を中心に、当時 京都帝国大学の考古学講座担当教授であった浜田青陵博士の協力を得て、全数400基におよぶ建碑を実行した。費用総額は2万円(現在の価値にすると約1億 円)に達した。八幡市内には、後半の4年間を費し、道標70基近く、その他旧蹟碑を含めると120余基の建立があった。
八幡散策:八幡市に活きた人、三宅安兵衛(みやけやすべえ)
[15:48]ここを右折すると、神原の交差点に出る。
[15:49]神原の交差点を電柱の矢印に沿って左折する。
[15:50]何度も通ったことのある道ですが、目的を持って歩かないと気が付かないものですね。
[15:54]碑に「尾張大納言」の文字があるので何だろうと思い調べると、正法寺は石清水八幡宮の社家志水氏一族の菩提寺で、志水宗清の娘亀女が徳川家康の側室となり、尾張徳川家の祖、義直の生母だった。
正法寺の碑
- 碑陽:尾張大納言義直候 母堂相應院殿墓所 正法寺
- 碑陰:昭和四年三月 稟京都三宅安兵衛依遺志建之
- 右面:北 九品寺一丁 京阪電車一八丁
- 左面:南 八角院四丁 圓福寺十五丁
[15:58]お肉屋さんの角に立派な、道標の碑が建っている。東在所道とは、ここから奈良道までの道筋を指しています。
京街道里程標の碑
- 碑陽:左 東在所道 戸津八丁 内里十五丁 岩田渡船場廿五丁 寺田一里半 下奈良渡船場廿二丁 宇治二里
- 碑陰:昭和二年十月 京都三宅安兵衛遺志建之
- 右面:左 京街道 御幸橋廿丁 鳥羽三里 淀一里半 伏見二里半 東寺四里廿丁
[16:06]二股の中央に碑。やっと洞ヶ峠を越えた先の(枚方の招提・長尾、四条畷)などの地名が登場する。間違いなく洞ヶ峠に近づいてきた。ここは、左手に進む。
水月菴の碑
- 碑陽:水月菴
- 碑陰:昭和二年建立 京都三宅安兵衛遺志
- 右面:向て右 北 八幡宮本社十丁 京阪八幡停留所廿丁 西幣原水月庵八丁 招提十八丁 枚方二里
- 左面:向て左 美濃山八丁 長尾停車場一里 四條畷三里
[16:19]月夜田の交差点に到着。北東角の位置に碑。高野街道峠十五丁と峠の文字が現われる。1丁が109.2mなので、あと1,638mとなる。Google map で距離を測ると、洞ヶ峠まで1.5km。
[16:20]
岡の稲荷社の碑
- 碑陽:正平七年役 神器奉安所 岡の稲荷社
- 碑陰:文学博士西田直二郎書 昭和二年七月 京都三宅安兵衛依遺志建之
- 右面:右 高野街道峠十五丁 野崎四里 津田二里 柏原六里 従是高野山至ル
- 左面:左 奈良街道 美の山十丁 大住一里 松井廿 薪一休寺
[16:31]右に折れて八幡安居塚の住宅地内に入る。やっと峠道らしい勾配になってきた。しかし、この道は住宅分譲地内の開発道路だ。不動産会社のネット情報から住宅地内の一戸建ては、建築後約30年位経っていると分かる。30年前だと、国土交通省の航空写真から造成前の姿が確認できるはずだ。
以前ここには、円福寺の碑があった。その痕跡が上の右画像。洞ヶ峠まで、あと2丁(約2km)に迫ってきました。
円福寺の碑
- 碑陽:聖徳太子御自作達磨大師霊像安置 江湖道場 圓福禅寺
- 碑陰:昭和丁卯二年 京都三宅安兵衛依遺志建之
- 右面:向て右 洞ヶ峠二丁 圓福寺五丁 田ノ口三十丁
- 左面:向て左 西二子塚三丁 美の山五丁 長尾三十丁 峠五丁
[16:39]同じく八幡安居塚の住宅地の角に碑があった。先に登場した「頼風塚」に繋がる碑のようだ。
涙川の碑
- 碑陽:涙川舊跡
- 碑陰:昭和三年 京都三宅安兵衛依遺志建之
- 右面:向て左 寶青庵一丁半
- 左面:向て右 圓福寺三丁半
東高野街道の昔の姿を追う
30年位前の開発地であれば、国土交通省の航空写真で過去の状況が確認できます。現在、八幡安居塚の住宅地を通る東高野街道は、どのような姿をしていたのか確認しておきましょう。
現在の姿(Google map より)
現在は、東高野街道に沿ってギッシリと住宅が立ち並んでいます。
昭和57年の姿(航空写真より)
現在と道路の配置は変わりなく、この時期には造成が終了していたことが分かる。東高野街道の西側と東側では、造成時期にずれがあるようです。事業主が違うのかもしれません。
昭和49年の姿(航空写真より)
前の画像から8年前に遡ると、まだ山林の状態です。その中央に、道の痕跡が線となって表れています。これが、東高野街道のようです。おそらく、この山林部分だけは、開発計画等の図面から正確に旧街道を復元することが可能だ。また、造成業者には、写真も残っている可能性もある。
南西側には、国道1号が現在と同じ姿で写っている。この区間の国道1号は、山林を大規模に切り通したことが分かる。この時、かっての洞ヶ峠は、土砂と共に掘り下げられて消えたのだろう。
[16:44]八幡安居塚の住宅街を抜けた。この高架道路のトンネルは、見たことがない。
階段があったので確かめてみた。最近拡幅された、山手幹線(京都府道284号八幡インター線)へ接続する道だった。なるほど、見たことが無いはずです。
[16:49]達磨堂円福禅寺に沿う竹林の道になる。洞ヶ峠は、もうすぐです。
東高野街道の洞ヶ峠
東高野街道は、平安時代に真言宗の開祖空海が建てた紀伊の国(和歌山県)の高野山金剛峯寺と京都の東寺を結ぶ参拝道(信仰の道)を指す。大阪府内で最長距離の街道である。
こ の東高野街道を現在の地名で表すと、京都駅の南に建つ東寺を起点として鳥羽・淀・八幡と南下し、「洞ヶ峠」を越えて枚方を通過する。さらに、生駒山地に沿 い四条畷・羽曳野・富田林から河内長野(旧国道170号)で、堺から延びる西高野街道(国道310号)と合流し、和歌山に入り高野山へ至る。
達磨堂円福寺は、今も禅僧・研修者の修行道場として開かれている。
[16:53]右手が枚方ハイツを通る東高野街道。左が国道1号に出る峠の茶家のある洞ヶ峠。
[16:56]国道1号が見えました。右手が峠の茶家です。
国道の反対側も竹林です。
再び京街道から東高野街道へ(国道1号の遍歴)
淀川に沿う京街道は、国道1号となり京阪国道と呼ばれるようになる。枚方バイパスの完成後は旧国道となり、その大半が京都府道・大阪府道13号京都守口線に変更される。
一方、東高野街道の洞ヶ峠のある区間に並行して、昭和41年の高度成長期の真っただ中、国道1号(枚方バイパス)が完成する。同時に洞ヶ峠も国道1号の峠となった。関西人にとっても馴染み深い国道1号は、かっての京街道であり東高野街道が遍歴した姿である。
枚方市民は近年まで、府道13号を国道1号もしくは、京阪国道と呼び、国道1号をバイパスと呼んでいた。枚方バイパスは、慢性的な渋滞区間だったが第二京阪道路とその側道の完成により大幅に解消された。
巨大な、ぼた餅が有名な洞ヶ峠の茶屋。
筒井順慶と洞ヶ峠
大和郡山城主筒井順慶は、明智光秀に非常に世話になっていた。彼の居城である郡山城は、先の城主松永久秀討った明智光秀から与えられた城であった。さらに子供のなかった順慶は、光秀の四男を養子にしている。
天正十年(1,582年)六月十三日、明智光秀と羽柴秀吉との「山崎合戦」の火蓋は切られた。順慶は五千の兵と「洞ヶ峠」に立った。その策は、戦況を眺め勝ち馬に乗るというもの。ここから日和見主義の代名詞「洞ヶ峠をきめこむ」が生まれた。
しかし、実際には秀吉の上京を知った順慶は、光秀からの使者が来ても郡山城から兵を動かさなかったと、『多聞院日記』などに記されている。
[16:58]大阪府と京都府の境を示す道路標識。丁度、日も暮れました。さあ、我が家まで帰ろう!
洞ヶ峠の現在
洞ヶ峠は信仰の道から軍事の道と移り変わり、バイパスの開通に伴い周囲に「枚方企業団地」「既製服団地」「枚方鉄工塗装 団地」などが造成され、現在は交通の大動脈として流通の道となっている。もはや高野山を目指した街道を越える峠としての趣はない。今、高野山真言宗総本山 金剛峯寺では、高野山開創1200年記念大法会記念事業が行われている。
洞ヶ峠の四方山話
- 洞当下・洞嶺・螺ヶ峠・洞ヶ嶺と当てられた記録がある。
- 足利義詮が正平七年(1,352)八幡の合戦で「洞峠ニ陣ヲ取ラントス」と『太平記』にある。
- 元禄二年(1,689)貝原益軒は『南遊紀行』に「洞ヶ嶺は、八幡の東南半里余りにあり」と記している。
- 『河内名所記』に「洞ヶ峠山城河内両国の堺、松三本あり」とある。
- 井出孫六が編者の『日本百名峠』に掲載されている。
- 「洞ヶ峠の碑」は、所在八幡市男山松里にある「ふるさと学習館」にある。
参考文献:『郷土枚方の歴史』『-楽しく学ぶ-枚方の歴史』『写真で見るひらかた今昔』『くずは物語』『くずは』『まんだ-第四十号』『北河内の今昔200話』『北河内いまむかし』
もっと他の峠は無いの!?という方
- 「都道府県別、峠の一覧」:評価順・標高順などに並べ替えて選ぶといいかも。
- 「峠マップ」:地図上から選べます。ちょっと重いからPCで見た方がいいかも。
この峠に行ってきたよ!とか、こんな峠があるよ!とか、記事の感想とか、お気軽にコメント頂けたら嬉しいです。
洞ヶ峠の位置図
編集後記
次から次に寺院や碑が登場して来るので、休憩する間もなく歩き通すことができました。大阪府で最も長い高野街道の一端でしかありませんが、何となく歩く楽しさを感じることもできて、年の瀬の楽しい半日でした。